« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

2013年6月21日 (金)

自分の意志の「わかった」では聞いたことにはなりません

 阿弥陀さまは、私をご覧になって、必ず救うと願い立ち上がってくださった仏さま。もう私はお念仏を称える身とさせていただいているのです。自然とこの口からこぼれる南無阿弥陀仏によって阿弥陀さまに救われているのです。ようこそ、ようこその世界に生かさせていただいているのです・・・。こんな感じの法話をよく聞きます。なんとなくほんわかムードで、毒もありませんし、私の思いを逆撫ですることもありません。わかったような、わからないような。
 おそらく、法を説く方がどのような聞法過程を経てこられたのかということが、仏法の味わいや法話の内容さらには説き方に大きな影響を与えているこることは間違いないでしょう。決して教えられないこと、味わってもいない世界が出てくることはありません。

 私には阿弥陀さまの願いを聞いたか聞かないか曖昧なままにすることはできませんでした。法話を聞くということは、常に私自身の思いとの葛藤でした。念仏を口にしても、常に念仏している私自身の心の内でその念仏の善し悪しを問うたものでした。私の思いなど必要ないのです。それでもウジウジと心の内を探り続けました。
 念仏が口から出ても、それはこぼれる念仏ではありません。がんばって絞り出す念仏でした。念仏が阿弥陀さまの願いそのものであり、はたらきそのものであるということなど、微塵も思っていなかったのでしょう。念仏が阿弥陀さまから廻向されたものであるということは、その後、本を読んで理解することができました。理解したからわかったわけではありません。

 「わかった」というのは実に曖昧な言葉です。「わかった」というのは、相手を納得させるため言い訳ではないでしょうか。
 「あんまり飲み過ぎたらダメ。そろそろやめたらどう?」「わかった、わかった・・・」
 「ちょっとはかたづけなさい」「わかってるって・・・」
なんて会話は日常茶飯事ではありますが、「わかった」という後の行動をみると、ほとんど言葉だけであったことに気づかされます。

 「摂取心光常照護」(摂取の心光つねに照護したもう)のなかには、私の意志はどこにもありません。しかしこのこころとはたらきに気づくことなしに私は目が覚めることはありません。いつまでも照らされながらも迷い続けてゆくのです。照らされながら、迷い続けてきた私なのですから。
 それに気づかされたとき、きっと「わかった」という安易な言葉で邪魔ものをあしらうような態度は取れないでしょう。毒も無い、自分の思いを逆撫ですることもない雰囲気だけの法話が、厳しく聞こえてくることでもあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月20日 (木)

往生はめでたい!

 私たちは「おめでとう」という言葉をよく使います。よろこばしいことがあったとき、うれしいことがあったときに発する言葉です。誕生したとき、成長の節目にあたるとき、病気が回復し健康を取り戻したとき、一つの事業を成功裏に終えることができたとき、世間から高い評価を得たとき・・・等々などに使われます。

 人の老病死は不幸ごとです。その人のことを思って「御見舞」することもあります。なかでも親しい人が亡くなるというのは悲しみ以外の何ものでもありません。ところが、親鸞聖人の手紙では、
  明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきには
  あらねども、かへすがへすうれしく候ふ。
(「親鸞聖人御消息『註釈版』pp.737-738)
とあり、その後、
  ひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、
  かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。
  めでたさ申しつくすべくも候はず。
     (同上 p.738)
と記されています。明法坊(山伏弁円)や平塚の入道が往生されたことを、「うれしい」「めでたい」とおっしゃっているのです。ここでの親鸞聖人が「往生」とおっしゃっているのは、一般に「死ぬ」「亡くなる」ということを指しています。
 親鸞聖人の「往生」は、それは単に「亡くなった」と言っておられるのではありません。「往生」は「往生浄土」の省略形です。この世における命を終え、この世の別れをしなければなりませんし、もうこの世では二度と会うことはできません。それは悲しいし、つらいことです。なのに親鸞聖人は、この世の悲しみやつらさを問題にしておられません。
 明法坊も平塚の入道も、この世の命を終えられたけれども、仏さまの世界である浄土に往き生まれられたことのだから、めでたいことだとよろこんでおられるのです。

 親鸞聖人の仏道は、往生浄土への歩みです。もちろんこの世を懸命に生きられたことは間違いありません。それも仏さまの世界、まことの世界に生まれるための人生でした。明法坊も平塚の入道も、同じ道を求めた御同行であり、御同朋でした。
 この世に執着している者にとっては、聖人のお言葉は非常識ですし、とても同意することができるものではないでしょう。聖人が見、感じている世界が見えていないのです。どんな状態になってもこの世に執着するし、未練いっぱいです。それが迷いの姿です。迷いの身であるものが、この世で交わす「おめでとう」はほんの一瞬のことで、思い出としてしか残りようがありません。

 この世におけるこの心、この身は、往生浄土を知りません。執着しているこの身に死がやってくることは、恐ろしいことです。そうでなければ、そのことを正面から見ないようにしているだけ。死によってどこに生まれるのかも知らないのです。とても「おめでとう」なんて言えません。
 人生のなかで、念仏を称え、仏さまとともに生きることができている者は、たとえこの世の命が終わっても、仏さまとともに生きることができるのです。「おめでとう」以外の何ものでもありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月17日 (月)

私が求める前に、歩み寄ってくださるのが本願

 浄土真宗は、「本願を信じ、念仏を申さば、仏となる」という教えです。この言葉は親鸞聖人が語られた言葉として『歎異抄』第十二章のなかに出てきます。「本願」「信じる」「念仏」「申す」「仏」「なる」という一つ一つの言葉はだれもが聞いたことがあるだろうし、それなりの理解をしているでしょう。しかしそのことが、親鸞聖人が語られた真意と合致するかというと、おそらくかなりズレている場合が少なくありません。考えていたこととまったく違うので、どういうことなのかさっぱりわからないという人もおられるかもしれません。
 たとえば、「信じる」という言葉は「思い込む」とか「信用する」という意味でもあります。少なくとも、私の主体的な行為だというのは多くの人の共通理解ではないでしょうか。「仏」という言葉についても、なかなか具体的なイメージを描くことができませんから、有名な仏像であったり、家の仏壇の絵像を思い起こされる人が多いのではないでしょうか。日常会話の中では「死者」や「死体」の意味で使われることさえあります。しかし普通に思い描かれるこれらの「信じる」や「仏」とは、まるっきり違う意味に使われています。
 短い言葉のなかに、濃い内容、しかも未知の意味で深い内容がギュゥ~と詰まっていますから、わかったようでも、ほとんど理解できていないのが現状です。この言葉をわかりやすく教えられるのが「法話」あるいは「説教」です。

 人の話を聞くときは、まず自分の知識や経験の範囲内でしか話は聞けません。ですから、未知の世界の話については、話を聞きながら自分の許容範囲を少しずつ広げてゆくしかありません。ところが、永年の人生行路のなかで学び、身につけてきた思いや考えにこだわりますから、知らない世界の話は聞けないのです。ましてや、すべて人間の世界で身につけたものですから、そこを離れた仏さまの世界の話にはついて行きにくい。また、信じるという行為は私のエゴでしかない、浄土真宗の信心は賜るのです・・・と言われたら混乱するばかりです。仏法に対して反発や、自分にとっては無関係なことである・・・とも思うことは無理からぬことです。
 法話や説教は仏さまの世界のことで、この世でいま私が生きることとは無関係だと思っています。たんなる物語かなぐさめや癒しの話だと思っています。厳しい現実を生きるのに、そんな世界は無用・・・と思うことが夢幻であることを教えているのが仏法です。

 私たちの常識をくつがえし、私が持っている知識や経験を超えた本願に遇うことによって目が覚めるのです。未知の世界や理解できない世界だと思ってたけれど、それが私の往くべき世界、私が生きる世界になってゆくことに気づかされたとき、念仏申すことこそが、まことであるとも知らされるのです。それは私の努力によるのではなく、本願が歩み寄り、念仏が寄り添ってきてくださることでもあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »