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2013年6月17日 (月)

私が求める前に、歩み寄ってくださるのが本願

 浄土真宗は、「本願を信じ、念仏を申さば、仏となる」という教えです。この言葉は親鸞聖人が語られた言葉として『歎異抄』第十二章のなかに出てきます。「本願」「信じる」「念仏」「申す」「仏」「なる」という一つ一つの言葉はだれもが聞いたことがあるだろうし、それなりの理解をしているでしょう。しかしそのことが、親鸞聖人が語られた真意と合致するかというと、おそらくかなりズレている場合が少なくありません。考えていたこととまったく違うので、どういうことなのかさっぱりわからないという人もおられるかもしれません。
 たとえば、「信じる」という言葉は「思い込む」とか「信用する」という意味でもあります。少なくとも、私の主体的な行為だというのは多くの人の共通理解ではないでしょうか。「仏」という言葉についても、なかなか具体的なイメージを描くことができませんから、有名な仏像であったり、家の仏壇の絵像を思い起こされる人が多いのではないでしょうか。日常会話の中では「死者」や「死体」の意味で使われることさえあります。しかし普通に思い描かれるこれらの「信じる」や「仏」とは、まるっきり違う意味に使われています。
 短い言葉のなかに、濃い内容、しかも未知の意味で深い内容がギュゥ~と詰まっていますから、わかったようでも、ほとんど理解できていないのが現状です。この言葉をわかりやすく教えられるのが「法話」あるいは「説教」です。

 人の話を聞くときは、まず自分の知識や経験の範囲内でしか話は聞けません。ですから、未知の世界の話については、話を聞きながら自分の許容範囲を少しずつ広げてゆくしかありません。ところが、永年の人生行路のなかで学び、身につけてきた思いや考えにこだわりますから、知らない世界の話は聞けないのです。ましてや、すべて人間の世界で身につけたものですから、そこを離れた仏さまの世界の話にはついて行きにくい。また、信じるという行為は私のエゴでしかない、浄土真宗の信心は賜るのです・・・と言われたら混乱するばかりです。仏法に対して反発や、自分にとっては無関係なことである・・・とも思うことは無理からぬことです。
 法話や説教は仏さまの世界のことで、この世でいま私が生きることとは無関係だと思っています。たんなる物語かなぐさめや癒しの話だと思っています。厳しい現実を生きるのに、そんな世界は無用・・・と思うことが夢幻であることを教えているのが仏法です。

 私たちの常識をくつがえし、私が持っている知識や経験を超えた本願に遇うことによって目が覚めるのです。未知の世界や理解できない世界だと思ってたけれど、それが私の往くべき世界、私が生きる世界になってゆくことに気づかされたとき、念仏申すことこそが、まことであるとも知らされるのです。それは私の努力によるのではなく、本願が歩み寄り、念仏が寄り添ってきてくださることでもあります。

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