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2013年6月21日 (金)

自分の意志の「わかった」では聞いたことにはなりません

 阿弥陀さまは、私をご覧になって、必ず救うと願い立ち上がってくださった仏さま。もう私はお念仏を称える身とさせていただいているのです。自然とこの口からこぼれる南無阿弥陀仏によって阿弥陀さまに救われているのです。ようこそ、ようこその世界に生かさせていただいているのです・・・。こんな感じの法話をよく聞きます。なんとなくほんわかムードで、毒もありませんし、私の思いを逆撫ですることもありません。わかったような、わからないような。
 おそらく、法を説く方がどのような聞法過程を経てこられたのかということが、仏法の味わいや法話の内容さらには説き方に大きな影響を与えているこることは間違いないでしょう。決して教えられないこと、味わってもいない世界が出てくることはありません。

 私には阿弥陀さまの願いを聞いたか聞かないか曖昧なままにすることはできませんでした。法話を聞くということは、常に私自身の思いとの葛藤でした。念仏を口にしても、常に念仏している私自身の心の内でその念仏の善し悪しを問うたものでした。私の思いなど必要ないのです。それでもウジウジと心の内を探り続けました。
 念仏が口から出ても、それはこぼれる念仏ではありません。がんばって絞り出す念仏でした。念仏が阿弥陀さまの願いそのものであり、はたらきそのものであるということなど、微塵も思っていなかったのでしょう。念仏が阿弥陀さまから廻向されたものであるということは、その後、本を読んで理解することができました。理解したからわかったわけではありません。

 「わかった」というのは実に曖昧な言葉です。「わかった」というのは、相手を納得させるため言い訳ではないでしょうか。
 「あんまり飲み過ぎたらダメ。そろそろやめたらどう?」「わかった、わかった・・・」
 「ちょっとはかたづけなさい」「わかってるって・・・」
なんて会話は日常茶飯事ではありますが、「わかった」という後の行動をみると、ほとんど言葉だけであったことに気づかされます。

 「摂取心光常照護」(摂取の心光つねに照護したもう)のなかには、私の意志はどこにもありません。しかしこのこころとはたらきに気づくことなしに私は目が覚めることはありません。いつまでも照らされながらも迷い続けてゆくのです。照らされながら、迷い続けてきた私なのですから。
 それに気づかされたとき、きっと「わかった」という安易な言葉で邪魔ものをあしらうような態度は取れないでしょう。毒も無い、自分の思いを逆撫ですることもない雰囲気だけの法話が、厳しく聞こえてくることでもあります。

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