« 私が求める前に、歩み寄ってくださるのが本願 | トップページ | 自分の意志の「わかった」では聞いたことにはなりません »

2013年6月20日 (木)

往生はめでたい!

 私たちは「おめでとう」という言葉をよく使います。よろこばしいことがあったとき、うれしいことがあったときに発する言葉です。誕生したとき、成長の節目にあたるとき、病気が回復し健康を取り戻したとき、一つの事業を成功裏に終えることができたとき、世間から高い評価を得たとき・・・等々などに使われます。

 人の老病死は不幸ごとです。その人のことを思って「御見舞」することもあります。なかでも親しい人が亡くなるというのは悲しみ以外の何ものでもありません。ところが、親鸞聖人の手紙では、
  明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきには
  あらねども、かへすがへすうれしく候ふ。
(「親鸞聖人御消息『註釈版』pp.737-738)
とあり、その後、
  ひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、
  かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。
  めでたさ申しつくすべくも候はず。
     (同上 p.738)
と記されています。明法坊(山伏弁円)や平塚の入道が往生されたことを、「うれしい」「めでたい」とおっしゃっているのです。ここでの親鸞聖人が「往生」とおっしゃっているのは、一般に「死ぬ」「亡くなる」ということを指しています。
 親鸞聖人の「往生」は、それは単に「亡くなった」と言っておられるのではありません。「往生」は「往生浄土」の省略形です。この世における命を終え、この世の別れをしなければなりませんし、もうこの世では二度と会うことはできません。それは悲しいし、つらいことです。なのに親鸞聖人は、この世の悲しみやつらさを問題にしておられません。
 明法坊も平塚の入道も、この世の命を終えられたけれども、仏さまの世界である浄土に往き生まれられたことのだから、めでたいことだとよろこんでおられるのです。

 親鸞聖人の仏道は、往生浄土への歩みです。もちろんこの世を懸命に生きられたことは間違いありません。それも仏さまの世界、まことの世界に生まれるための人生でした。明法坊も平塚の入道も、同じ道を求めた御同行であり、御同朋でした。
 この世に執着している者にとっては、聖人のお言葉は非常識ですし、とても同意することができるものではないでしょう。聖人が見、感じている世界が見えていないのです。どんな状態になってもこの世に執着するし、未練いっぱいです。それが迷いの姿です。迷いの身であるものが、この世で交わす「おめでとう」はほんの一瞬のことで、思い出としてしか残りようがありません。

 この世におけるこの心、この身は、往生浄土を知りません。執着しているこの身に死がやってくることは、恐ろしいことです。そうでなければ、そのことを正面から見ないようにしているだけ。死によってどこに生まれるのかも知らないのです。とても「おめでとう」なんて言えません。
 人生のなかで、念仏を称え、仏さまとともに生きることができている者は、たとえこの世の命が終わっても、仏さまとともに生きることができるのです。「おめでとう」以外の何ものでもありません。

|

« 私が求める前に、歩み寄ってくださるのが本願 | トップページ | 自分の意志の「わかった」では聞いたことにはなりません »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/5065/57626668

この記事へのトラックバック一覧です: 往生はめでたい!:

« 私が求める前に、歩み寄ってくださるのが本願 | トップページ | 自分の意志の「わかった」では聞いたことにはなりません »