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2013年7月31日 (水)

わがはからいを越えるお念仏(下)

わがはからいを越えるお念仏(下)

 念仏の声を聞かない人が、念仏を称えるということはありません。しかし、歳を重ね、人生においてさまざまな経験を経るなかで、どこかで必ず念仏の縁に遇っているのです。自分では気づかずとも、すでに何度もその縁に遇ってきたに違いありません。阿弥陀さまの願いが、そして阿弥陀さまのはたらきが、私のところに届いているのに、そのことに気づかず、みすごして今日に至っているのでしょう。
 私たちはこれまで迷いに迷って今日に至っています。ほんとうのことが見えないし、阿弥陀さまの願いを疑い続けます。ということは、念仏の声を聞かないというより、もともと聞けないのがこのわが身なのです。その私が念仏を聞く耳をいただき、聞くべきようにし向けられ、念仏を称えることができるようになったのです。そこには私の力など微塵もありません。私のために仕上げられた阿弥陀さまの願いがさまざまのご縁となって積み重なり、阿弥陀さまによって私のもとに届けられた。その証しが、わが口から出る「南無阿弥陀仏」なのです。

 社会や家族のありようが大きく変わるなかで、仏法あるいは念仏の相続がこれまでと同じようになされるということはとても難しくなっています。仏法大事と思うなら、それに変わる相続の方法や仕組みを作りだしてゆかなければなりません。・・・とはいっても、そんなことが一朝一夕でできるはずはありません。
 念仏は、自分のいただいた念仏を称えることにより、その念仏の声が他の人々に伝わってゆく力を持っています。わが口から称名念仏することによって、その念仏のこころは相続されてゆくのです。それは私が称えることによって相続されるのではありません。念仏そのものがまことであり、阿弥陀さまのはたらきであるがゆえの力によるものです。
 そのことはわかっていても、人前で称名念仏することは勇気がいるし、恥ずかしい・・・という思いが湧いてきます。念仏を称える身とさせていただいても、やっぱりかわいいのはこのわが身ですから世間体が気になります。また、かつて私が感じた念仏への違和感や嫌悪感を、この念仏の声を聞いている人は感じているのではないか・・・などと思ったりするのです。
 仏法や念仏の相続の方法や仕組みを考える前に、まず自分自身がいただいたお念仏を「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、・・・」と口に称えさせていただきましょう。わが身にはたらいてくださっている阿弥陀さまの願いは、そのまま外に向かってはたらいてくださる阿弥陀さまのはたらきでもあるのです。私のはからいを越えて、お念仏は拡がってゆきます。
(完)

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2013年7月30日 (火)

わがはからいを越えるお念仏(上)

 在家仏教協会発行の『在家仏教』2013年8月号(既刊)に掲載された原稿です。今日と明日の2回に分けて、このブログ上に掲載させていただきます。

わがはからいを越えるお念仏(上)

 平成二十四年版の高齢社会白書によれば、六十五歳以上の者が子どもと同居している割合は、昭和五十五(一九八〇)年にほぼ七割であったものが、平成十一(一九九九)年に五十%を割り、二十一(二〇〇九)年には四十三%と減少の一途をたどっています。また、六十歳以上の高齢者が別居している子との接触頻度は、「週1回以上」が約五十二%、「月に1~2回以下」は約四十八%です。これを諸外国と比較してみると、前者の割合がアメリカ、スウェーデンで約八割、韓国、ドイツでは約六割となっており、我が国の高齢者は別居している子との接触頻度が低い人が多くなっていることがわかります。
 つまり、日本では高齢者の親子が同居する割合が低くなる傾向にあり、別居している親子の接触頻度が他国に比べて低いということがわかります。さらに、平成二十四年の民間調査機関の調査では、子育て家庭で祖父母と同居している子どもは全国でわずか十三%という結果が出ていますので、祖父母と孫の関係も薄いと言わざるを得ません。
 それは地域社会の崩壊と相まって、人生の先輩からの文化伝承が難しくなっているということでしょう。また、祖父母や両親の宗教的な生き方に触れることによって醸成されてきたてきた日本人の宗教心が途切れてしまう傾向にあるということでもあります。うまく相続・伝承されなくなってきた部分を補うために、一般に広く流布している書籍やインターネットを利用することができますが、どれだけ詳細な説明しても伝えることができない感性や機微といったものは失われてしまっていることを、感じないではおれません。
 そのことは、仏法のなかに世俗的な考え方が覆いかぶさってしまうようになっています。仏法は仏(=覚者)に成る教えでも、仏さまの教えでもなくなり、世俗を生きるための手段としてみられることが多くなっているのではないでしょうか。我流の仏教理解、世間の倫理や道徳のレベルで語られ、教えの核心が見えなくなってしまっています。

 私が幼かった頃、日常生活のいたるところで、ごく自然に念仏する声が聞こえました。何も知らない私は、その念仏の声になんとなく違和感をもち、時には嫌悪さえ感じたものでした。しかし愚かな思い込みや勝手な解釈を変えてくれたのが祖母であり、父であり、仏法の上での先輩たちでした。
(続く)

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2013年7月26日 (金)

私を覆い尽くす弥陀の慈悲

 「より善く生きたい」というのは誰もが願うことです。その「より善く」というのは、それぞれの人が経験し学んできた範囲を超えるものではありません。身体的、精神的、社会的に自分を満足させてきた生き方であり、こうありたいという希望でもあります。多くの人たちと共有する「より善く」もありますが、まったく違ったり、なかには相反することもあります。
 仏法はそこのところを根底から問い直しています。自分のもっている「より善く」という生き方は、一時的にわが身をわが心を喜ばそうとするだけのものでしかないですよ・・・、と。私の身体や心を満足させようにも、刻一刻と変化してゆくのですから、いつも、いつまでも満たしてくれるものではありません。私の生きる社会も、さまざまな要因によって瞬時に状況が変化し続けているのですから、そちらへの対応もしなければなりません。つまり「より善く」の中身そのものが定まらないし、継続することはないのです。
 仮に多くの人たちと共有する「より善く」であったとしても、「より善く」を共有できない人たちもいることもいるのです。それらの人を無視したり、ときには敵対することもあります。せっかくの「より善く」には限りがあるということです。

 私たちのもつ「より善く」の基準になるのは私なのです。仏法では、仏さまのまことという基準が示されていて、それには分け隔てがありません。私が基準にして分け隔てをして、善し悪しを判断した結果が「より善く」なのです。私が基準になってしまうと、分け隔てのないことが気にくわないことにさえなってしまいます。
 分け隔てをしないというのは、基準にはならないのではないか? ほんとうにその通りです。いろんな価値観や判断基準があるから、私たちは分け隔てをする。「わかる」の語源は「分ける」だという。分けるからわかるし、判断し、決めることができるのです。どのような判断がなされようとも、それは阿弥陀さまのお慈悲とはまったく無関係。右も左も、上も下も、美も醜も、善も悪も、・・・すべて阿弥陀さまのまことのなかに摂め取っていかれるのです。

 阿弥陀さまのまことのなかに・・・ということなら、阿弥陀さまのまことにかなわない領域があるのではないか? それは阿弥陀さまの分け隔てではないのか・・・?
 当然、そういう理屈は立つでしょう。阿弥陀さまのまことと対立するのは、この世俗を煩悩いっぱいに生きることしかできない私の思いであり、生き方そのものすべてです。阿弥陀さまが分け隔てをなさっているわけではない。むしろ「摂取不捨」だとおっしゃる。善人も悪人もすべて。むしろ悪人こそがめあてだと願ってくださっているのです。そこに理屈を付け、逆らい、疑い続けているのです。
 それでもやっぱり自分が基準。この私には間違いがないと思い続けてこの世を生きています。どこまでいってもそこから離れられない。それゆえ「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられた」(『歎異抄』第九章)のです。阿弥陀さまの慈悲は、私を覆い尽くしています。私の思いや基準を超えたところでのはたらきなのです。

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2013年7月19日 (金)

智眼くらしとかなしむな

 この世を生きている。そしていつまでも生き続けることができるかのように錯覚してしまう。死ぬのはまだ先。次の瞬間にこの世の命が終わるなんてとても思えない。そういう思いすべてが迷いであると仏法は教えています。教えられても、なかなかそうだとは思えません。ましてや、この世の命が終わったのちのわが身のありようなど、考えてもわからないし、意味の無いことだと思っています。それでも、よくわからないけれどどこか不安。だから考えないようにしている・・・という人も少なくないでしょう。そんなことはまったく考えたこともないという人はいないのではないでしょうか。それでも迷いのまっただなかにいますから、答えは出ようはずはありません。問題はうやむやのまま先送りしてゆくのです。
 それでも、一瞬のうちに命が終わります。そういうことを知識として知っているというだけではなく、これまで繰り返し見てきました。魚や昆虫の命が終わってゆくのを何度も見てきました。最初のうちはとても純粋で、驚きもしましたが、そのうち何も響かなくなってしまいました。それでも、親しくつきあってきた先輩や同級生が命を終えてゆく姿にドキッします。お世話になったり仲良く遊んだ親族、あるいは常にいっしょにいた家族のなかからこの世の命を終えたときは、何かよくわからないけれどわが身に迫る危機的な何かを感じることもあります。

 無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ

 最近、この和讃が無意識のうちに押し寄せる波のように口に出てきます。「無明長夜」はこの世の迷いだけではありません。この世が無明であるのにどうして後生が明るいでしょう。明けることはないのでしょうか。「生死大海」は人生の荒波のことを言うのではありません。因果の道理から言うなら、生きている間には何ともならなかった因の結果は、この世を終えた次の境涯で明らかになるということです。
 「無明長夜」も「生死大海」も、私には何も見えていないのです。見えないからわからないし、そんなものは無いと否定したいのです。しかし仏さまの智慧によってみせられてしまったら、私の心はとても落ち着きません。そのことは同時に、やっと目が覚めたということではないのでしょうか。
 落ち着かない心、捨て去ることができない煩悩をめあてに、阿弥陀さまのお慈悲がはたらいてくださることを知らされるのです。絶望の渕に立たされながらも、そのことを悲しむことも歎くこともことのいらない、確かなはたらきがあることを知らされるのです。

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2013年7月14日 (日)

取り返しのつかない人生で終わりますか?

 人生のなかで失敗をすることはよくあることです。仮に失敗したとしても、「失敗は成功のもと」ですし、数多くの失敗が人生を豊かにすることもあります。再挑戦、再出発ができると考えれば恐れることはありません。どのような結果が出たとしてもその経験が大切なことです。このように励まし、自分の人生を力強く歩めと教えてくれる人は少なからずいてくださいます。
 ところが、人間に生まれたけれど、人生の再出発、再挑戦することを許してくれないことがあります。「死」です。それも80年90年生きるとはだれも保証してくれません。この世の命を終えるのは、明日、いや今日の夕方、いやいや次の瞬間・・・などと考えているうちは、この世の命を他人事してみているということではないでしょうか。死はそんな悠長なものではありません。たった今、この場で、この世の命を終えてゆかねばなりません。

 私たちは日常生活のなかで、常に過去があり、現在があり、そして未来があると考えています。でも過去は過ぎ去ったことですから、すべてのことが思い出でしかありません。未来はまだ来ていないのですから、予め描いたような状態となるなどという保証はどこにもありません。ということは、私が生きているのは常に現在(=今)でしかありません。そこには成功も失敗もありません。あとで、そのことが成功であったのか失敗であったのかを知るのみです。
 ところが、「死」というのは、私の人生の時間を断ち切ってしまうできごとです。それは私の人生の未来も無にしてしまうということです。これまで蓄えてきた知識や技術、さらには数々の経験も消え去ってしまいます。もちろん文字や形にして残しておくことはできますが、それを第三者が評価してくれるということはまれなことではないでしょうか。まかり間違うと偏見をもたれたり、誤解されることもあるかもしれません。悔いることができたとしても、どうすることもできません。しかしそれは世ほどの才能のある人の話であり、たいていはそのうちに忘れ去られてしまうほかはありません。

 この世に生きていたということさえも忘れ去られるかもしれません。せっかく人間に生まれてきたのに、何をするために生まれてきたのでしょうか。やり直しはできないし、取り返しがつかない人生だとすれば、こんなにさみしいことはありません。
 そんな取り返しがつかないような人生にはさせないと誓ってくださったのが阿弥陀さまです。その阿弥陀さまの誓いを願いを、そしてはたらきを知っていますか。出遇うことはできましたか。断末魔に「しまった!」と思うようなことはありませんか?格好をつけて「はい」と言ってみても、よくわからないから黙りを決め込んでみても、それは解決にはなりません。

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2013年7月 6日 (土)

僧侶・布教使がするべきことは(下)

 かつて布教使という資格はありませんでしたし、その養成は、いわゆる徒弟制度的であり、師匠の布教使と聞法や布教の時間は常に共にすることで、指導を仰ぐというものでした。それゆえ、師匠の色が色濃く出ますし、細部にわたる指導までなされたようです。いまではそのような布教使養成のありようは、ほとんどみられなくなっています。
 それは布教使養成だけではありません。大工、左官などの職人さんも職業訓練学校で、俳優や漫才師などの芸人さんも、養成スクールのようなところの出身者が圧倒的に多くなっています。ただ、職人さんや芸人さんと布教使との決定的な違いは、技術を磨き、個性を伸ばすことだけではすまないということです。
 布教使の場合は、伝えるべきもの(こと)をしっかりいただいているか否かというところが最大の問題です。言い換えれば、信心があるか否かということです。ところが、信心の有無というのは、浄土真宗の場合であれば阿弥陀さまと私の関係であり、そのほかのどのような人であっても立ち入ることはできません。それでも、たいへん微妙ではありますが、しばらく法の話をしておれば、その人の信心のありようはわかってくるものです。つまり、阿弥陀さまからいただいた信心ですから、同じ信心であることは間違いありません。それなら信心決定した人と一味であることをどこかに感じるところはあるはずです。それは言葉の表現のしかたの問題ではなく、直感的に伝わってくるものがあるということでしょう。
 そういう直感はあったとしても、他人の信心のありようを確実に間違いなく判断するということはできません。そこが難しいところではあるのですが・・・。

 声が大きく、美声である。やさしくてよく理解できる。話の構成がうまい。ウィットなども織り込まれ聞かせる話である。・・・等々の条件が揃っていているに越したことはありませんが、伝えるべきもの(こと)は、阿弥陀さまの願いです。自分の腹の底にドーンといただいた願いでないと、他人事としてしか聞いてもらえないでしょう。阿弥陀さまの願いが、煩悩に道がこのわが身を貫かない限り、阿弥陀さまの真意は伝わろうはずはありません。

 かつて、私が得度してすぐ、こんな忠告をしてくださった先輩僧侶がいます。「坊さんというのはしっかり法を聞かないと、人を渡しても自分は落ちるで。坊さんになったら救われるのと違うんやで。仏法を正しく聞いた者だけが救われていくのや。坊さんに、あんたの信心間違いないか・・・と問うてくれる人は誰もおらへん。あんたのするべきことはまずしっかり仏法聞くことや」と。ここの僧侶や坊さんという言葉は、そのまま布教使と読み替えて聞くべきことでしょう。

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2013年7月 5日 (金)

僧侶・布教使がするべきことは(上)

 浄土真宗では、各家庭の法事やお寺での法要・行事など、多くの人が集まれば必ず法話をする時間が設けられてきました。5分ほどの一口法話のようなものから、一座二席(前席・後席)90分という長い法話もあります。そのような場で仏さまの話を聞くのは、真宗門徒にとってはあたりまえのことと思われてきました。しかしそれだけが仏さまの話を聞く機会ではありません。お寺や僧侶とのかかわりがなくとも仏法談義をする機会としての「講」や、家族やごく親しい人たち数人で法を語り、それぞれの信心のありようを問う「家庭法座」などもあります。そのほかにも、日常生活を通しても法が語り合われ、仏法は味わい尽くされてもきました。説き手が聞法者となり、聞法者が説き手となる。自身の法についての味わいを語ることがそのまま仏さまの話となったのです。
 仏法の味わいを語る人の話を聞くと、同じ法を聞かせていただいているのに、それぞれが色がでてきます。それはその人の個性であり、人生経験そのものであり、出遇ってきた人・・・などが醸し出す色なのでしょう。しかしそこには、「仏法まこと」の筋が通っていることを感じるのです。

 そういう日常生活を通して自然な形で仏法が語られる機会は次第に減少しているのではないでしょうか。もちろん、それは今に限った話ではないのかもしれませんが、口を開けば我がことであり、世間ごとの話の花が咲いても、仏法を讃談し、わが身のありようを振り返るということはあまりありません。
 その一方で、最近、浄土真宗本願寺派を中心とした真宗では、あちこちで「布教大会」なるものが催されるようになり、複数の布教使が20~30分程度の法話をなさるという機会が増えているように思います。これは仏法を聞きたい・・・という要請に応じたものではなく、多かれ少なかれ布教使養成という要因が大きいのではないでしょうか。気になるのは、そこに参加されているのは真宗に縁のない方ではないということです。なかには真宗門徒の方も少なく、参加者の大半は僧侶や布教使の方だという「布教大会」もあります。今後、一般門信徒へ、さらには真宗に縁のない人々が聞法する機会となることを願うばかりです。
 布教使が布教の最前線にでてくることはたいへんいいことです。とくに本願寺派では布教師養成に力を入れていることが形になってきているということでもあります。そのことを起爆剤として、家庭法座や日常生活のなかで仏法が語られ、自身を振り返るとともに、仏法第一とする生活しかまことの生き方はない・・・という方向転換に向かってもらいたいと思うのです。

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