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2013年7月30日 (火)

わがはからいを越えるお念仏(上)

 在家仏教協会発行の『在家仏教』2013年8月号(既刊)に掲載された原稿です。今日と明日の2回に分けて、このブログ上に掲載させていただきます。

わがはからいを越えるお念仏(上)

 平成二十四年版の高齢社会白書によれば、六十五歳以上の者が子どもと同居している割合は、昭和五十五(一九八〇)年にほぼ七割であったものが、平成十一(一九九九)年に五十%を割り、二十一(二〇〇九)年には四十三%と減少の一途をたどっています。また、六十歳以上の高齢者が別居している子との接触頻度は、「週1回以上」が約五十二%、「月に1~2回以下」は約四十八%です。これを諸外国と比較してみると、前者の割合がアメリカ、スウェーデンで約八割、韓国、ドイツでは約六割となっており、我が国の高齢者は別居している子との接触頻度が低い人が多くなっていることがわかります。
 つまり、日本では高齢者の親子が同居する割合が低くなる傾向にあり、別居している親子の接触頻度が他国に比べて低いということがわかります。さらに、平成二十四年の民間調査機関の調査では、子育て家庭で祖父母と同居している子どもは全国でわずか十三%という結果が出ていますので、祖父母と孫の関係も薄いと言わざるを得ません。
 それは地域社会の崩壊と相まって、人生の先輩からの文化伝承が難しくなっているということでしょう。また、祖父母や両親の宗教的な生き方に触れることによって醸成されてきたてきた日本人の宗教心が途切れてしまう傾向にあるということでもあります。うまく相続・伝承されなくなってきた部分を補うために、一般に広く流布している書籍やインターネットを利用することができますが、どれだけ詳細な説明しても伝えることができない感性や機微といったものは失われてしまっていることを、感じないではおれません。
 そのことは、仏法のなかに世俗的な考え方が覆いかぶさってしまうようになっています。仏法は仏(=覚者)に成る教えでも、仏さまの教えでもなくなり、世俗を生きるための手段としてみられることが多くなっているのではないでしょうか。我流の仏教理解、世間の倫理や道徳のレベルで語られ、教えの核心が見えなくなってしまっています。

 私が幼かった頃、日常生活のいたるところで、ごく自然に念仏する声が聞こえました。何も知らない私は、その念仏の声になんとなく違和感をもち、時には嫌悪さえ感じたものでした。しかし愚かな思い込みや勝手な解釈を変えてくれたのが祖母であり、父であり、仏法の上での先輩たちでした。
(続く)

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