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2013年7月 5日 (金)

僧侶・布教使がするべきことは(上)

 浄土真宗では、各家庭の法事やお寺での法要・行事など、多くの人が集まれば必ず法話をする時間が設けられてきました。5分ほどの一口法話のようなものから、一座二席(前席・後席)90分という長い法話もあります。そのような場で仏さまの話を聞くのは、真宗門徒にとってはあたりまえのことと思われてきました。しかしそれだけが仏さまの話を聞く機会ではありません。お寺や僧侶とのかかわりがなくとも仏法談義をする機会としての「講」や、家族やごく親しい人たち数人で法を語り、それぞれの信心のありようを問う「家庭法座」などもあります。そのほかにも、日常生活を通しても法が語り合われ、仏法は味わい尽くされてもきました。説き手が聞法者となり、聞法者が説き手となる。自身の法についての味わいを語ることがそのまま仏さまの話となったのです。
 仏法の味わいを語る人の話を聞くと、同じ法を聞かせていただいているのに、それぞれが色がでてきます。それはその人の個性であり、人生経験そのものであり、出遇ってきた人・・・などが醸し出す色なのでしょう。しかしそこには、「仏法まこと」の筋が通っていることを感じるのです。

 そういう日常生活を通して自然な形で仏法が語られる機会は次第に減少しているのではないでしょうか。もちろん、それは今に限った話ではないのかもしれませんが、口を開けば我がことであり、世間ごとの話の花が咲いても、仏法を讃談し、わが身のありようを振り返るということはあまりありません。
 その一方で、最近、浄土真宗本願寺派を中心とした真宗では、あちこちで「布教大会」なるものが催されるようになり、複数の布教使が20~30分程度の法話をなさるという機会が増えているように思います。これは仏法を聞きたい・・・という要請に応じたものではなく、多かれ少なかれ布教使養成という要因が大きいのではないでしょうか。気になるのは、そこに参加されているのは真宗に縁のない方ではないということです。なかには真宗門徒の方も少なく、参加者の大半は僧侶や布教使の方だという「布教大会」もあります。今後、一般門信徒へ、さらには真宗に縁のない人々が聞法する機会となることを願うばかりです。
 布教使が布教の最前線にでてくることはたいへんいいことです。とくに本願寺派では布教師養成に力を入れていることが形になってきているということでもあります。そのことを起爆剤として、家庭法座や日常生活のなかで仏法が語られ、自身を振り返るとともに、仏法第一とする生活しかまことの生き方はない・・・という方向転換に向かってもらいたいと思うのです。

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