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2013年7月 6日 (土)

僧侶・布教使がするべきことは(下)

 かつて布教使という資格はありませんでしたし、その養成は、いわゆる徒弟制度的であり、師匠の布教使と聞法や布教の時間は常に共にすることで、指導を仰ぐというものでした。それゆえ、師匠の色が色濃く出ますし、細部にわたる指導までなされたようです。いまではそのような布教使養成のありようは、ほとんどみられなくなっています。
 それは布教使養成だけではありません。大工、左官などの職人さんも職業訓練学校で、俳優や漫才師などの芸人さんも、養成スクールのようなところの出身者が圧倒的に多くなっています。ただ、職人さんや芸人さんと布教使との決定的な違いは、技術を磨き、個性を伸ばすことだけではすまないということです。
 布教使の場合は、伝えるべきもの(こと)をしっかりいただいているか否かというところが最大の問題です。言い換えれば、信心があるか否かということです。ところが、信心の有無というのは、浄土真宗の場合であれば阿弥陀さまと私の関係であり、そのほかのどのような人であっても立ち入ることはできません。それでも、たいへん微妙ではありますが、しばらく法の話をしておれば、その人の信心のありようはわかってくるものです。つまり、阿弥陀さまからいただいた信心ですから、同じ信心であることは間違いありません。それなら信心決定した人と一味であることをどこかに感じるところはあるはずです。それは言葉の表現のしかたの問題ではなく、直感的に伝わってくるものがあるということでしょう。
 そういう直感はあったとしても、他人の信心のありようを確実に間違いなく判断するということはできません。そこが難しいところではあるのですが・・・。

 声が大きく、美声である。やさしくてよく理解できる。話の構成がうまい。ウィットなども織り込まれ聞かせる話である。・・・等々の条件が揃っていているに越したことはありませんが、伝えるべきもの(こと)は、阿弥陀さまの願いです。自分の腹の底にドーンといただいた願いでないと、他人事としてしか聞いてもらえないでしょう。阿弥陀さまの願いが、煩悩に道がこのわが身を貫かない限り、阿弥陀さまの真意は伝わろうはずはありません。

 かつて、私が得度してすぐ、こんな忠告をしてくださった先輩僧侶がいます。「坊さんというのはしっかり法を聞かないと、人を渡しても自分は落ちるで。坊さんになったら救われるのと違うんやで。仏法を正しく聞いた者だけが救われていくのや。坊さんに、あんたの信心間違いないか・・・と問うてくれる人は誰もおらへん。あんたのするべきことはまずしっかり仏法聞くことや」と。ここの僧侶や坊さんという言葉は、そのまま布教使と読み替えて聞くべきことでしょう。

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