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2013年7月26日 (金)

私を覆い尽くす弥陀の慈悲

 「より善く生きたい」というのは誰もが願うことです。その「より善く」というのは、それぞれの人が経験し学んできた範囲を超えるものではありません。身体的、精神的、社会的に自分を満足させてきた生き方であり、こうありたいという希望でもあります。多くの人たちと共有する「より善く」もありますが、まったく違ったり、なかには相反することもあります。
 仏法はそこのところを根底から問い直しています。自分のもっている「より善く」という生き方は、一時的にわが身をわが心を喜ばそうとするだけのものでしかないですよ・・・、と。私の身体や心を満足させようにも、刻一刻と変化してゆくのですから、いつも、いつまでも満たしてくれるものではありません。私の生きる社会も、さまざまな要因によって瞬時に状況が変化し続けているのですから、そちらへの対応もしなければなりません。つまり「より善く」の中身そのものが定まらないし、継続することはないのです。
 仮に多くの人たちと共有する「より善く」であったとしても、「より善く」を共有できない人たちもいることもいるのです。それらの人を無視したり、ときには敵対することもあります。せっかくの「より善く」には限りがあるということです。

 私たちのもつ「より善く」の基準になるのは私なのです。仏法では、仏さまのまことという基準が示されていて、それには分け隔てがありません。私が基準にして分け隔てをして、善し悪しを判断した結果が「より善く」なのです。私が基準になってしまうと、分け隔てのないことが気にくわないことにさえなってしまいます。
 分け隔てをしないというのは、基準にはならないのではないか? ほんとうにその通りです。いろんな価値観や判断基準があるから、私たちは分け隔てをする。「わかる」の語源は「分ける」だという。分けるからわかるし、判断し、決めることができるのです。どのような判断がなされようとも、それは阿弥陀さまのお慈悲とはまったく無関係。右も左も、上も下も、美も醜も、善も悪も、・・・すべて阿弥陀さまのまことのなかに摂め取っていかれるのです。

 阿弥陀さまのまことのなかに・・・ということなら、阿弥陀さまのまことにかなわない領域があるのではないか? それは阿弥陀さまの分け隔てではないのか・・・?
 当然、そういう理屈は立つでしょう。阿弥陀さまのまことと対立するのは、この世俗を煩悩いっぱいに生きることしかできない私の思いであり、生き方そのものすべてです。阿弥陀さまが分け隔てをなさっているわけではない。むしろ「摂取不捨」だとおっしゃる。善人も悪人もすべて。むしろ悪人こそがめあてだと願ってくださっているのです。そこに理屈を付け、逆らい、疑い続けているのです。
 それでもやっぱり自分が基準。この私には間違いがないと思い続けてこの世を生きています。どこまでいってもそこから離れられない。それゆえ「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられた」(『歎異抄』第九章)のです。阿弥陀さまの慈悲は、私を覆い尽くしています。私の思いや基準を超えたところでのはたらきなのです。

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