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2013年7月19日 (金)

智眼くらしとかなしむな

 この世を生きている。そしていつまでも生き続けることができるかのように錯覚してしまう。死ぬのはまだ先。次の瞬間にこの世の命が終わるなんてとても思えない。そういう思いすべてが迷いであると仏法は教えています。教えられても、なかなかそうだとは思えません。ましてや、この世の命が終わったのちのわが身のありようなど、考えてもわからないし、意味の無いことだと思っています。それでも、よくわからないけれどどこか不安。だから考えないようにしている・・・という人も少なくないでしょう。そんなことはまったく考えたこともないという人はいないのではないでしょうか。それでも迷いのまっただなかにいますから、答えは出ようはずはありません。問題はうやむやのまま先送りしてゆくのです。
 それでも、一瞬のうちに命が終わります。そういうことを知識として知っているというだけではなく、これまで繰り返し見てきました。魚や昆虫の命が終わってゆくのを何度も見てきました。最初のうちはとても純粋で、驚きもしましたが、そのうち何も響かなくなってしまいました。それでも、親しくつきあってきた先輩や同級生が命を終えてゆく姿にドキッします。お世話になったり仲良く遊んだ親族、あるいは常にいっしょにいた家族のなかからこの世の命を終えたときは、何かよくわからないけれどわが身に迫る危機的な何かを感じることもあります。

 無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ

 最近、この和讃が無意識のうちに押し寄せる波のように口に出てきます。「無明長夜」はこの世の迷いだけではありません。この世が無明であるのにどうして後生が明るいでしょう。明けることはないのでしょうか。「生死大海」は人生の荒波のことを言うのではありません。因果の道理から言うなら、生きている間には何ともならなかった因の結果は、この世を終えた次の境涯で明らかになるということです。
 「無明長夜」も「生死大海」も、私には何も見えていないのです。見えないからわからないし、そんなものは無いと否定したいのです。しかし仏さまの智慧によってみせられてしまったら、私の心はとても落ち着きません。そのことは同時に、やっと目が覚めたということではないのでしょうか。
 落ち着かない心、捨て去ることができない煩悩をめあてに、阿弥陀さまのお慈悲がはたらいてくださることを知らされるのです。絶望の渕に立たされながらも、そのことを悲しむことも歎くこともことのいらない、確かなはたらきがあることを知らされるのです。

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コメント

はい、有難うございます。
ここのところは、ゆっくりお話し聞かせていただきたいところでした。
今度があるならぜひ!お願いします。

投稿: 散華 | 2013年7月22日 (月) 18時09分

散華さん
「智眼くらし」「罪障おもし」の私の受け止めは、親鸞聖人よりもっと軽い感じだと思いますよ。そのことに悲しんでませんし、歎いてはいませんもの。だから頭が下がらない。
本願力の大きさは、智眼の暗さ、罪障の重さをカバーするものですから、本願力の大きさも計り知ることができない。
それでも仏法を聞くご縁をいただくことができるのは、阿弥陀さまの願力に依るものとしか考えられないのです。

投稿: gsaiko | 2013年7月22日 (月) 14時15分

上記の和讃は母がよくうたっていて、子供のころから耳にしていました。懐かしい。
智眼くらしと、罪障おもしと知らされたなら悲しむだろう嘆くだろうと思っていましたが、それを知らされてなおの無明の闇は絶望的に底無しです。それをみきったうえでの阿弥陀様の本願力の大きさ広さに、ただただ頭を下げさせられるのみです。

投稿: 散華 | 2013年7月22日 (月) 09時08分

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