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2013年10月28日 (月)

どうして人を殺してはいけないのか?

 龍谷大学教授の浅田正博先生の著書『生かされて生きる~どうして人を殺してはいけないのですか~』探究社刊を読みました。
 その前に、拙著『私のものさし 仏のこころ』と発行日が同じ。総ページ数は拙著の半分ほどの67ページ。なのに価格が税別で350円。拙著の価格が1200円(税別)なのに比べるとベラボーに安い! 何故?・・・って聞いたところ、出版部数がメチャ多いのと、龍谷大学文学部仏教学科のOBの篤志家の寄付があり、それを同学科の社会還元事業の一環として出版されたものらしい。しかしこの本は、多くの人に読んでもらいたい本でもありますから、350円をケチらずに一読して欲しいです。

 さて、「どうして人を殺してはいけないのですか?」というテーマで、浅田ゼミの学生たちと議論したことが書かれています。
 すぐ浮かぶ答えは、法律で決まっているから、また仏教徒の視点からだと殺生を戒めているから、・・・などと答えるでしょう。ほんとにそれで説得力がありますか。人は殺してはいけないけれど、ブタや牛ならいいのですか? 蚊やハエなら殺すのが当然ですか?
 また、自殺(自死)は許されますか? 自殺は人を殺すのではなく、自分を殺すのです。自分の命をとやかく言われる筋合いはない・・・のでしょうか? あるいは堕胎はどうでしょうか? 未成年で結婚もしていない状態での妊娠や、強姦による妊娠も考えられるでしょう。学生たちの多くは、自殺を容認し、堕胎を容認したと言います。仏教学を学んでいる学生たちがです。
 他人事なら、話のネタのうちのひとつかもしれませんが、客観的な評論程度で話すことが許されない、私自身の問題として考えればどうでしょう。

 さらに浅田ゼミの議論は続きます。地獄の有無です。経典には人を殺したら地獄に堕ちるって書いてある。また極楽があるとも書かれているが・・・と問われます。しかしある学生は、極楽はあると思うが地獄は無いと答えたというのです。
 浅田先生は学生たちに問いかけます。君たちは1年2年で仏教を学んできたのに、どうして仏教学の見方をしないのか? 仏典にはどのように書いてあるのか・・・と。

 この先は、この本を読んでみてください。そしてみなさんも考えてみてください。私たちは一人の人間ではありますが、ただ人間として生きているだけでいいのでしょうか?
 仏教に教えられることがない限り、どこまでも好き勝手な思いで、傲慢にしか生きることができません。若いときは年長者に導かれて生きたとしても、ある程度以上の年齢に達すると、意見してくれる人がいなくなり、また意見されても聞けなくなってしまいます。
 私は人間として正しく生きてゆく道は、仏法を聞くほかはないと思います。聞いても好き勝手にしか生きられない私ではありますが、唯一のブレーキは仏法ではないでしょうか。そこにどれだけ深く帰依できるのか、仏教徒として、あるいは念仏者として問われていることでもあると思います。

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2013年10月20日 (日)

『私のものさし 仏のこころ』

 『私のものさし 仏のこころ』探究社 A5判127頁 ¥1200+税

 前著『われも六字のうちにこそ住め』(樹心社)に引き続き、ブログ「畢竟依を帰命せよ」からの一部をまとめたものです。1000字超の読み切りの文章が48あります。それぞれのタイトルをみて、どこからでも読んでいただくことができます。

 この本は、前著の原稿整理、編集をするなかで、第1章および第2章として予定していました。しかし樹心社より、原稿の量が多すぎるので、出版するのは第3~第5章の部分にしたいという意向が示され、同意しました。
 つまり前著の前半部分をなすのが本書です。もちろん、そんなことを知らずとも、違和感なく読んでいただけると思います。

 以前にもどこかに書いたように思うのですが、浄土真宗の法話に限りませんが、どの布教使(師)さんも、聞法プロセスについての話はあまり触れられません。
 仏法は、出遇いの縁がありますが、それから後、まことにうなづくことができるまでがとてもたいへんです。人それぞれですから、そんなことは何も問題にならなかった、なってはいない・・・という人もおられるでしょう。しかし、私の場合は、聞いてもわからない、わかっても腹の底から納得できるものではない、疑っているわけではないけれど心の底では「でもね・・・」と言いたくなる(これこそバリバリの疑心です)、等々、心の晴れない聞法経歴が何年も続いています。
 仏法を聞くための正統な聞法プロセスなんてありません。人それぞれに違うのです。正しい聞法プロセスが語れるはずはないから、あまり話されることはないのでしょう。また、仮に誰かの聞法プロセスを示したところで、そうなれるかというとそうなれない。そうなれないことは信心には至り着くことができないのだ・・・という誤解さえ生みかねません。聞法プロセスを語るということは、そういう弊害もあるのです。

 しかし、聞法プロセスを語ることは弊害ばかりではないとも思っています。聞法は最初のうちは、自分の思いのところで聞いていても、それが何も役に立たないことを知らされるのは、具体的な聞法プロセスに依るところが大いにあります。もっとも、それは多くの同行たちと本音の信心談義をしておれば、自ずとわかることですが、なかなかその「本音の信心談義」ができなくなっているのではないでしょうか。

 特に本書の後半部分は、法を「聞く」ことについての文章をまとめてあります。仏法を聞くということは、日常生活の会話を聞くのと聞き方が違います。また落語や講義を聞くことも違います。そこのところの私の思いを記してあります。ここのところは、読まれたあとの感想なり思いを聞かせていただきたいものです。

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2013年10月 2日 (水)

「浄土真宗の法話案内」サイト

 Facebookで浄土真宗関係の僧侶や門信徒の方々のつながりができています。しかも本願寺派に限ってないところがおもしろいところです。その仲間たちが、直接会うこともなく、ネット上で相談し、ネット上で決定して、仏法のご縁をつくろうとする試みています。
 ひとつは「真宗合同布教大会」。とかくかみ合わない真宗各派の僧侶が、一堂に会して一人20分ずつの法話をするという企画です。正直、その法話の内容は玉石混交という感じをしないではありませんが、そのことを感じられる場ができたということは大きな意味があると思っています。

 もう一つ、「浄土真宗の法話案内」というWebサイト(http://shinshuhouwa.info/)ができつつあるということです。現時点でテスト運用がなされています。
 浄土真宗の十派の寺院を合わせると、2万ヶ寺以上あって、多くの寺で報恩講や永代経が勤まります。季節的には、春秋彼岸会や盂蘭盆会(歓喜会)も勤まります。それぞれの法要はお勤めのあとに、法話があります。それに加えて、毎月あるいは定期的に常例法座や、聖教や教学の勉強会も開催されています。それぞれのお寺の門信徒がお参り・参加の中心でしょうが、それ以外の人のお参り・参加も可能です。
 ところが、その広報は門信徒にはなされていても、それ以外の人が知ることはほとんどないのではないでしょうか。寺院の活動を広報するのは寺院住職の役割、僧侶の仕事のように思われているのではないでしょうか。実際、そのとおりですから、門信徒への広報さえもなかなか徹底できるものではありません。それをインターネットを利用して、僧族を問わず関心のある人すべての力を利用して広報しようとする試みです。

 これまでの宗派や各寺院の案内は、法要・行事が中心で、その一部として法話があるという広報の仕方でした。しかしこのサイトは「法話案内」であるというところに、大きな特徴があります。法話案内のデータベースとしての活用が大いに期待できます。この「浄土真宗の法話案内」サイトから、聴聞に行ける場所と時間を探せます。また、出講講師別にも検索可能です。

 家族の構成が大きく変化し、関係が壊れ、地域社会の紐帯が失われてゆくなかで、宗教的な伝統やしきたりも失われてゆきます。浄土真宗の門信徒が寺に参り、仏法聴聞するという伝統も希薄化しています。そこにカンフル剤のように登場した「浄土真宗の法話案内」サイト。このサイトに多くの人がアクセスされることを期待しています。同時に、このサイトに多くの人が訪れ、その内容が充実するほどに、布教使(師)の役割の大きさを痛感されるでしょう。

※ 現在はテスト運用中ですが、10月半ばには
正式運用が計画されています。多くの方が
利用されることを期待しています。

浄土真宗の法話案内サイト
http://shinshuhouwa.info/

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2013年10月 1日 (火)

誕生日はめでたいか?

 きょう、58才誕生日を迎えることができました。facebook上で、多くの方々からお祝いのメッセージをいただきました。ありがとうございます。
 しかし仏教では基本的には誕生日のお祝いはありません。お祝いがあるのは、4月8日のお釈迦さま誕生日(花まつり)と、各宗派の宗祖くらいのものではないでしょうか。浄土真宗本願寺派では、親鸞聖人の誕生日である新暦の5月21日に「宗祖降誕会」として法要が執り行われますが、これも明治以降、ヨーロッパでは誕生日をお祝いすることを取り入れたようです。

 現代の日本は、これまでの人類の歴史ではどの時代も、だれもが経験したことのないほど豊かで楽しく快適な生活が送れるようになっています。衣食住はじめ、五感のすべてがさまざまな形で満たすことが可能になっています。これまでの世界の歴史や現在の世界各国の生活ぶりからすれば、現代日本は多くの問題を抱えてはいるものの、ある意味パラダイスと言えるのではないでしょうか。多くの日本人は、苦悩をかかえながらも、別にさとらなくても、浄土に行けなくとも、この世をこんなに幸せに生きてゆけるならそれで十分だと思っておられるのではないでしょうか。
 ところが仏法では、この世は迷いの世界であると教えます。幸せだと思っていることは長続きはせず一瞬の夢幻で消えてしまうのですから。現代の世を楽しんでいる人々には、そんな教えはおそらく耳に入ってこないのかもしれません。仏教が教える過去世や未来世を一切問わず、現世のことだけしか見えていないのです。ですから「死んだらおしまい」だと言うのでしょう。まさに「煩悩にまなこ(眼)さえられて」生きているに過ぎないのです。
 そんな迷いの人生から仏法をみれば、「うっとうしい」「バカらしい」「何の得にもならんのに」などと見えているのかもしれません。確かに、仏法の教えの周辺領域にある、僧侶やお寺の運営方法や教団のあり方、等々への批判や非難はあるでしょう。しかし正しい仏法の教えを聞けば、そこに人生のありようを問うていることに気づかれるはずです。それは人生と向き合った人のみが気づくことではなく、だれもが人生のなかでフッと心のなかをよぎるはずです。

 正しい教えを聞いて、さとりを得ることこそ真なる誕生であり、人生の究極の目標です。浄土教では、往生浄土、つまり仏の国である浄土に生まれることがめでたいことです。仏縁もなく、亡くなってこの世から別れてゆくのであれば、死は歎き悲しむことでしかありません。しかし仏法を聞き、お慈悲の中に生きることができた人には、この世のいのちを終えるということは、浄土に生まれるということであり、この世の別れは悲しくとも、とてもめでたいことなのです。
 亡くなった後、私はどこにかえってゆくのか? かえるところも定まらないまま、人生を終えてゆくことほど悲しいことはありません。私たちがこの世にいのちをいただくということは、浄土に向かって人生を歩む可能性をいただいたということです。それなら、浄土に向けての道を歩まねばなりません。そのなかで、まことの教えを聞いたとき、初めて「おめでとう」という言葉が響いてくるのです。
 この世にいのちをいただいたあなたは、ほんとうに「おめでとう」と言える歩みのなかにおられますか?

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