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2013年10月 1日 (火)

誕生日はめでたいか?

 きょう、58才誕生日を迎えることができました。facebook上で、多くの方々からお祝いのメッセージをいただきました。ありがとうございます。
 しかし仏教では基本的には誕生日のお祝いはありません。お祝いがあるのは、4月8日のお釈迦さま誕生日(花まつり)と、各宗派の宗祖くらいのものではないでしょうか。浄土真宗本願寺派では、親鸞聖人の誕生日である新暦の5月21日に「宗祖降誕会」として法要が執り行われますが、これも明治以降、ヨーロッパでは誕生日をお祝いすることを取り入れたようです。

 現代の日本は、これまでの人類の歴史ではどの時代も、だれもが経験したことのないほど豊かで楽しく快適な生活が送れるようになっています。衣食住はじめ、五感のすべてがさまざまな形で満たすことが可能になっています。これまでの世界の歴史や現在の世界各国の生活ぶりからすれば、現代日本は多くの問題を抱えてはいるものの、ある意味パラダイスと言えるのではないでしょうか。多くの日本人は、苦悩をかかえながらも、別にさとらなくても、浄土に行けなくとも、この世をこんなに幸せに生きてゆけるならそれで十分だと思っておられるのではないでしょうか。
 ところが仏法では、この世は迷いの世界であると教えます。幸せだと思っていることは長続きはせず一瞬の夢幻で消えてしまうのですから。現代の世を楽しんでいる人々には、そんな教えはおそらく耳に入ってこないのかもしれません。仏教が教える過去世や未来世を一切問わず、現世のことだけしか見えていないのです。ですから「死んだらおしまい」だと言うのでしょう。まさに「煩悩にまなこ(眼)さえられて」生きているに過ぎないのです。
 そんな迷いの人生から仏法をみれば、「うっとうしい」「バカらしい」「何の得にもならんのに」などと見えているのかもしれません。確かに、仏法の教えの周辺領域にある、僧侶やお寺の運営方法や教団のあり方、等々への批判や非難はあるでしょう。しかし正しい仏法の教えを聞けば、そこに人生のありようを問うていることに気づかれるはずです。それは人生と向き合った人のみが気づくことではなく、だれもが人生のなかでフッと心のなかをよぎるはずです。

 正しい教えを聞いて、さとりを得ることこそ真なる誕生であり、人生の究極の目標です。浄土教では、往生浄土、つまり仏の国である浄土に生まれることがめでたいことです。仏縁もなく、亡くなってこの世から別れてゆくのであれば、死は歎き悲しむことでしかありません。しかし仏法を聞き、お慈悲の中に生きることができた人には、この世のいのちを終えるということは、浄土に生まれるということであり、この世の別れは悲しくとも、とてもめでたいことなのです。
 亡くなった後、私はどこにかえってゆくのか? かえるところも定まらないまま、人生を終えてゆくことほど悲しいことはありません。私たちがこの世にいのちをいただくということは、浄土に向かって人生を歩む可能性をいただいたということです。それなら、浄土に向けての道を歩まねばなりません。そのなかで、まことの教えを聞いたとき、初めて「おめでとう」という言葉が響いてくるのです。
 この世にいのちをいただいたあなたは、ほんとうに「おめでとう」と言える歩みのなかにおられますか?

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