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2015年6月 5日 (金)

四国の殺人事件犯人逮捕に思うこと

 四国の殺人事件の容疑者が僧侶であったというニュースに驚いた。ことの事情がどのようなものであったのかはわからないし、詮索するつもりはない。
 ただ、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という『歎異抄』の言葉を、改めて思わずにはおれない。私自身に向けての言葉として。

 今回の事件の容疑者も、僧侶になるにあたり、親や門信徒の期待があり、自らの発心もあったであろうと思う。人との出遇いのなかで、当初は殺人など思いもよらなかったであろう。それがどこでどう絡み合い縁となったのか、このような事態に至ってしまった。警察やマスコミが詮索する動機や因果関係などでは探りきれない「業縁」に依っているとしかいいようがない。

 自分でコントロールしていると思ってる人生のように思っても、実は縁のなかでしか生きらていないのがこの私である。最終的には自分の思いであり、わが行為であっても、そこに至るまでの因と縁は、無限の過去世からの、ありとあらゆる無限の関係の中から生まれ出たものである。たどることもできない知ることもできない複雑怪奇ななかからそうならざるをえなかった。あるいはそうなるべくしてなったともいえるかもしれない。そのこところはまったく知ることはできない。私たちの一切の思案を超えたはるかかなたからの因縁でしかない。

 それは、言い換えるなら、私の次の瞬間がどうなるのか…ということを、自分でコントロールできないということでもある。自分でコントロールしているように思っていても、実はたまたまコントロールできたように思えているだけのことでしかない。

 「それゆえのご本願…」と、すぐに真宗僧侶は説教してしたがる。そして「ありがたい」「もったいない」と話は終わる。しかしここは、しっかり自分のところに踏みとどまって、自分のところから逃げずに「さるべき業縁」を味わうべきではなかろうか。
 逃げずに味わえば信心は得られるのか、深まるのか…? そんなことはないかもしれない(いや、あるかもしれない)。しかしそこから逃げるから、社会との接点を失ってしまうのだ。ここは、一人の人間として、わが身にベクトルを向けてみるべき問題である。

 その一方で、これまで聞かせてもらってきた南無阿弥陀仏がはたらいてくださっていることが知らされる。さるべき業縁と南無阿弥陀仏を、布教使が引っ付けてどうするねん。自分の思いで納得させてどうするねん。
 「我執」いっぱいで生きてるものが、そのときの気分にほだされて「それゆえの本願…」なんて、どの口から言うてるのか? 聴く者ひとり一人が、聞かされて知らされてゆく教えであることを思わずにはおれない。

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